東京への遷都により、山の手に住宅地、下町に商業地ができ、その中心に丸の内、日本橋、銀座の都心が成立する。
明治の10年~20年代は当地は田舎に近い場末であった。
青梅街道・甲州街道に人、物の往来はあったが、その中で内藤新宿(現在の新宿1丁目~3丁目現伊勢丹デパート)のもと宿場辺りが賑わっていた。

当時の交通は明治22年の甲武鉄道(新宿~八王子)、明治36年市電(新宿~半蔵門)、大正2年京王線(新宿~八王子)、大正10年西武電車(新宿~荻窪)昭和2年小田急電車(新宿~小田原)と、交通機関の発達があった。

当地の発展を決定づけられたのは、大正12年の関東大震災である。
旧市内の建物、住宅は消失したが、当地をはじめ郊外地区の損害は軽微なもので、郊外に住宅を求める人が多く、新宿が交通の中心点となった。

昭和5年6月の統計によると、国鉄・私鉄・市電・バス等で40万人以上の乗降者が新宿駅を利用したとある。

このときに、一世を風靡した流行歌「東京行進曲」
(西条八十作詞・中山晋平作曲)
♪♪~
シネマ見ましょうか
お茶飲みましょか
いっそ小田急でにげましょか
変わる新宿あの武蔵野の
月もデパートの屋根に出る
~♪♪

新興新宿の盛り場と電車・バス等のあふれんばかりの情景が唄われている。東京の人口が500万人を超え、この期の国鉄新宿駅の乗降客は約8万人で東京駅を抜いた。
このため第一回記載の「浄水場移転運動」が盛り上がったのである


淀ニ小学校同窓生他で、この欄をご覧になった方に・・・

淀ニ小跡(京王プラザホテル正面前・現ファーストウエストビル)の3階に、大正~昭和年間の学校・卒業生の様子を伝える写真・校旗等々が展示されています。


第一回 | 第二回 | 第三回第四回