江戸時代初期(1654年4代将軍家綱)に江戸の水不足をまかなうため、玉川上水が開かれ、江戸から50kmも離れた羽村(はむら)から多摩川の水が市中に引かれた。明治に首都が東京に移されると、都市に不可欠な近代水道の建設が始まった。(明治23年)当町西に隣接する10万坪の敷地に、多摩川の水を沈殿、ろ過し浄水を供給でき、神田・日本橋方面に給水された。(明治31年)
浄水場が村山に移転(昭和40年)、その跡地利用について、ゴミ処理場設備設置の案があり、当町民隣接各町が必死の反対運動を展開した。今日新都心として城西地区の繁栄があるのは、地元先輩諸氏のおかげであると思われる。
なお、浄水場正門から100mの所に「美空ひばり」さんの母校、精華女学校があり、淀橋第ニ小学校からの入学者が多かった。昭和初期には、現在の京王・小田急デパートの前にタバコ専売局工場や青果物問屋街があり、日本中学・工手(こうしゅ)学校があった。流通の要として当町北には青梅街道、南には甲州街道があり、新宿駅(国鉄時代)は物資輸送の重要地点であった。