西新宿1丁目地域の現在のあり方を運命づけたのは「浄水場」の存廃である。
従って、浄水場の存在を沿革から要点を辿ってみる。
- 東京(江戸)の発展には、それを支える水の確保に苦労したわけであるが、水不足を賄うために玉川上水が江戸から50kmの羽村(ハムラ)から多摩川の水が引かれたのである。
- 明治24年給水を必要とした人々は、約150万人であり、給水先は、四谷・赤坂・麻布・芝・麹町・牛込・小石川・本郷・神田であった。尚、これに対応する浄水場の面積は約10万坪である。
- 明治10年~20年は、東京の街は「煉瓦(れんが)の街とガタ馬車」・「コレラと大火」とも言われていた。
- 当時の東京市街地は、現在の皇居を中心に拡がっており、この地域が沼・沢の埋立地であったため、良質の井戸水が出なかった。
- 安政5年(1858・日米通商条約締結年)ペリー来航5年後に長崎・大阪・奈良・東海・江戸に「コレラ」が流行した。
当時の東京人口推定120万人~150万人とすると、約1万人~1.5万人が罹患(りかん)し、1万人以上が快復できなかったとされ、大パニック状態であった。
その因はインドのガンジス河口部に発生し、日本開国と共に侵入したもので、水・飲料・米のとぎ水等から人体に侵入したものと判り、都市の水道、環境衛生の改善と推進がなされたものであった。
後に医学上コレラの病原菌の感染源が主として汚染された飲料水であるのが常識となった。
以上が淀橋浄水場(現都庁他高層ビル群)建設の基になった。当時の新聞から水道料金は、人々にその代価以上の利益があったと報じている。
(当時明治25年の一般家庭5人までは年間4円であった。)
旧淀橋浄水場周辺(昭和37年)
右下が新宿駅